するべきことは同じように済ませ、何事もなかったかのように、日常の営みが続けられていく

デス書き込み

🌟純粋に単純に、ごく当たり前のように、クソジジイ(同居の義父:97歳)には、消えて無くなってほしいと思う。奴が、この世に居なくなっても、たとえ明日の朝に目の前から消えたとしても、私は何の痛痒も感じないし、喪失感など皆無で、むしろそうなることでの清々した心持ちは、何事にも代えがたいと思うくらいだ。

🌟そこに居ることが邪魔であるとか、目障りであるとか、胸糞が悪いとか、それはいくら言葉を重ねても言い表せない憎悪はあるけれど、もっとも強烈に奴の存在否定を規定するには、存在の無=喪失そのものの無、であろうと思う。
 このサイトにおげる同志の皆さまの、「義」がらみの奴らを憎む気持ちは痛いほど分かるものの、自分の愛するもの、血のつながった「はらから」を失う悲しみと比べれば、所詮は他人事のたわ言といわねばならない。
 肉親を亡くした時の、激しく強く、居たたまれない感情の渦巻に比べたら、「義」がらみの奴らに向ける、たとえば、八つ裂きにしても足りない、恨み骨髄に染む怨念だとしても、所詮は赤の他人への低レベルの戦闘能力しか持たない火器の攻撃でしかないのです。

🌟もっとも高度で強力な、そして取り付く島もないような精神的殺戮を行使したいなら、それは、奴ら「義」がらみの輩たちを、己の精神領域から完璧に消滅せしめることではないかと。
 完全なる無視は、あたかもそれが目の前に無きかの如く、存在の否定はおろか、物体としての残像さえも残し得ないくらいに、物理的かつ概念的に「ゼロ」であると認めることである。

🌟クソジジイが死んでいなくなっても、昨日と変わらずに今日は明け暮れ、するべきことは同じように済ませ、何事もなかったかのように、日常の営みが続けられていく。
 奴がいなくても、何ひとつ変わることなく、いつも通りに万事が進んでゆく。そこには、愛しき人の喪失感で心が空虚になるようなことはなく、彼の人の在りし日の記憶に竿さして、気怠く横たわってしまうこともありはしない。

 ただ単に、何か良く分からない、臭い醜い肉の塊が炭化して灰になり、北風に煽られて黄泉の国に飛び去っただけのことであるのだ。本当にどうでもいい、取るに足らない、水分、タンパク質、脂肪、ミネラルの合成物が、目の前から消滅しただけのこと。
 テメーなんて、所詮は、そんなものよ。オレにとってのテメーは、微量な思いを寄せる価値もないレベルの、塵(ちり)灰の類いの存在でしかないのよ。頼むから、明日の朝、死んでくれ、臭い寝床の中で息絶えてくれ、加齢臭の浸み込んだ肌掛けにくるまって、死後硬直してくれよ!
 
 

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